南部鉄器
2020.08.04
30度を超える日が続き、ようやくの夏本番。
奥州市(おうしゅうし)中心部より、東北一長い、北上川(きたかみがわ)を渡り、また一歩、太平洋側へと近づいた。
北上川を渡って直ぐに、金属の匂いが立ち込める工場地帯へ入った。そこは、南部鉄器の鋳造所が立ち並ぶ場所だ。
実は昨日の南部鉄器の風鈴に魅せられて、立ち寄れそうな南部鉄器を販売しているお店を調べていた。それでヒットしたのが及源鋳造(おいげんちゅうぞう)さんだった。朝9時から営業とあったため、待つことなく店に入ることができた。
工場の一角にあるお店の中は、直営店らしく、多種多様な南部鉄器が多数並んでいた。一つ一つが興味深いデザインで、入ってすぐに1日いてもいいと感じた。
お店の方から南部鉄器の歴史を伺うと、それまでのにわか知識が間違っていたことを知る。そもそも、南部鉄器とは盛岡を中心とした南部藩だった頃に造られた鋳物のことをいい、主に、お茶文化から来ているそうだ。それよりも歴史の古い江刺(えさし)の鉄器、鋳物(いもの)は水沢鋳物といわれ、始まりは奥州市江刺にて約900年以上前からという。平泉が藤原氏により栄えた頃、主に仏具として造られた鋳物が平泉衰退と共に、農機具や庶民の生活道具へと形を変えたそうだ。
さらに、なぜ江刺で鋳物文化が栄えたかというと、鉄器を造るために必要なものがすべて揃っていたからという。まずは鉄。北上山地は古くから鉄が採れる場所だったこと。鉄を溶かすための燃料となる木材が豊富だったこと。鋳型を造るための良質な砂が北上川から取れたことだからだという。さらに、重たい鋳物の運ぶための物流として北上川は重要な役目を果たしていたそうだ。
今でこそ岩手県で造られた鋳物は南部鉄器と一括りとなっているが、歴史を知ると全く別のもの、別の歩みがあることがわかった。
日本には数多くの伝統工芸があり、水沢鋳物もその一つ。機械化が進み、時短、低価格のモノが増える現代で、継承が上手く行かない工芸が多くあると聞く。
継承には最低でも修行10年、それからさらに1人前となるには数年がかかるという。今の時代に全て合わせることが正解ではなく。今だからこそ、一つのモノや事に時間を惜しみなくかけることに意義があり、大切にしなくてはいけないのだと感じた。
時間の使い方も、ものづくりも「丁寧」にだと。
音色のいい風鈴を購入し、北上山地の深くへと、日中30度の中を上り続けた。
この日の宿泊地は久しぶりのキャンプ場でテント泊。宮沢賢治さんがたくさんの唄を生み出した種山(たねやま)高原で1人静かな夜を過ごした。
夕食に地元産の食材を使ってカレーライスを作ったが、炊飯を失敗してしまったことは、ここでは掘り下げないようにしたい。カレーにしておいてよかった。
テントの上で水沢鋳物の風鈴がそよ風に心地よい音色を奏でた。