間違った知識
2019.09.15
足尾銅山跡地へと抜ける峠を越えると、目の前に青空と男体山が飛び込んできた。今日の午後には、もうひとつ峠を越えて、奥日光へと入る。
昭和48年に閉山された足尾銅山の名残は今もなお、そこかしこに見ることができる。庚申山から男体山へ向かうときに、勝道上人(しょうどうしょうにん)は阿世潟峠(あぜがたとうげ)を越えたという。
その足跡を辿るように、銅山上流へと歩いた。途中、巨大な砂防ダムがあった。親水公園の入り口に大きな看板があり、足尾銅山により、足尾の広大な山々の緑がなくなってしまった歴史が紹介されていた。
昭和30年頃の写真があり、目を疑うような光景が目の前の山々に起きていたことを知った。一人で写真を見ながら驚いていると、一人の男性が現れて、足尾の歴史について、詳しく解説してくれた。
銅の発見は江戸時代に遡るらしいが、当時はまだまだ技術が乏しく、一時は栄えたものの、明治に入り閉山状態にまで落ち込んだそうだ。しかし、探鉱技術の進歩により、有望鉱脈が次々に発見されて、さらに、日本の銅生産は明治時代の富国強兵政策によって飛躍的に発展、昭和に入ってからの世界的に銅の需要が高まったことで、足尾銅山の生産量は、日本の銅生産量のうち40%も担っていたという。その一方で、足尾の山からは、燃料や坑内の支柱にするために、無計画に木が切り出され、さらに、銅を製錬するときに発生する亜硫酸ガスによる大気汚染で、山は再生する力を失い、荒廃していったという。
初めて足尾銅山に来たときに、広範囲の山が丸裸だったため、見渡す限りの山から鉱石が採掘されたのだと思っていたが、実際に銅の鉱脈があったのは、備前楯山(びぜんたてやま)という山だけだったことには驚いた。
その他の山は、全てが伐採と大気汚染からの土壌汚染による荒廃だった。また、荒廃した山は保水力を失い、洪水を頻発させ、汚染された土壌が渡瀬川下流に流れ込み、足尾銅山鉱毒事件が起きた。
てっきり、この事件により銅山閉山へと追い込まれたとばかり思っていたが、実際は海外の銅生産が発展し、銅の価格が下がったことが一番の原因だったという。
その後、足尾の山に緑を取り戻す活動が本格化して、全く緑がなかった山もかなり再生が進んでいる。
自然から人の手で奪ったものを、再び人の手によって返している現場が目の前にあった。
今回の解説で一番驚いたことは、備前楯山の坑道全てをつなげると、1200キロにもなることと、最盛期は栃木県で第2の都市として3万人以上の人が暮らしていたことだった。
自分の間違った知識を今回の偶然な出会いによって、正すことができた。
最盛期に足尾で住んでいた子供たちが、遠足で歩いたという道を辿り、阿世潟峠を越え、中禅寺湖の畔から、存在感たっぷりの男体山がどっしりと鎮座している姿を確認した。
華厳滝方面に歩いていると、この日二度目の偶然が。中禅寺にて、修験者の方々が火渡りの行をされていて、参加させていただくことができた。ここも勝道上人が開いた寺で、日光修験では山へと入る前に火渡りなどの行をするらしい。
幸いにも男体山への登拝を前に、ふさわしい経験をすることができた。